海苔むじの由無し事

海苔むじの日常や音楽事情、小説、数学記事、創作言語ロシュトル語についてなどをつらつらと書くブログです。

創作小説『淡い多面体の飛翔』第二篇

 インク壺と鐘の間に聳えるカタツムリが常に無意識の砂の上にあるならば、私は何をすれば良いのだろうか。独善的なイメージに身を任せ、3月のクラリネットが妖精の心臓を生み出すのを眺めても、私にはその答えが分からなかった。私はあの「朗読の脱走」という18世紀風の石造りのバスにかなり心惹かれているのである。このバスというものにも色々種類があるが、特にキリンとオウムはこの事に詳しく、彼らにとってはまるで石盤に蝋燭で見慣れぬ線対称な図形を描くようなものである。

 工場はもう数十ヶ月歯痛に苦しんでいるようだ。ところで、想像はなぜ嗅覚の中の花びらをこんなにもけばけばしく際立たせるのか?ヒトデが肉の胸囲を崇拝して得られる二次方程式にも神の有罪判決が見出されるかもしれず、その裁判ときたら、オレンジ色のカメレオンが氷の道標が成す偏角を様々な海藻に置き換えることを除けば何も黒々としたところがないのである。移動式の公衆電話が火の鉄の押し花を自らに吸収しようとしていたその時、ちょうど私も「空虚の総称」という実験から得られた活版印刷のトーストをぐるぐると乱暴にかき混ぜて、サン・マルコ大聖堂のあの恐れ多い領域について思いを馳せていた。おお、数少ない想像上の鴎たちよ、泥棒たちは彼らと海を探しに行くのだが。燃え上がる髪を結った女庭師たちが今にも革命を起こそうとしているが、その革命というのはパン粉に埋もれた電位差に肋骨の音楽をかわるがわる享受せしめることを目的としたものであった。恐らく、あらゆる目と樹木が、バロック様式の骨組みと、私の前頭葉にとまっている金の蜻蛉が先祖代々秘儀のもとに継承してきた廃村に同化してしまうであろう。

 私は、次々に流れ込んでくる紫色の形而上の犬を順当にあちこちへと運んで回る作業を行っていた。犬といっても、彼らは自らの内に取り残しておくべき二羽の鴨も存在せず、次第に薄暗くなりつつある薄情な無線機に警戒心をさえ抱いていたように見えた。木々は白い眠りを歌っていたし、小間使いたちは祈りを捧げる一輪のスズカケであった。ちょうど私がダルメシアンを地中海に運んだ時であったが、私の周りのT字路が忽然と消え、代わりに表現しようもなく細やかな時計仕掛けで動く三枚羽の蝶が、古ぼけた活動写真の如く現れた。或いはそれは虹を対称な湖の上に投影していたかもしれない。その日は確かどこか遠方で静けさが人知れず死に、人々はこの死について諸説紛々といったふうであったが、私だけにはそれが第一宇宙速度の艷やかで滑らかな、ガラス張りの遺跡であることが分かった。

今となってはこの幾重にも折れ曲がった死について語るのは遅すぎる。緑色の廃れた小屋を訪ねる者は、照準を合わせられたX氏を除いては誰もいない。それでも私は、急勾配の魚の横でトルコ風に切り抜かれた山高帽に大手を振っては、今もなお無作為に選ばれた石の面影に入れられた一筋の切れ込みを眺めている。