海苔むじの由無し事

海苔むじの日常や音楽事情、小説、数学記事、創作言語ロシュトル語についてなどをつらつらと書くブログです。

創作小説『淡い多面体の飛翔』第一章

 人が噂するところによると、町外れの、カナリヤの変容に対してかなり傾斜のある教会に住む未亡人が売っているある煙草は、それを吸った人間の上唇にこの上なく軽快なスタッカートでもって何か眩い有機化学的作用を引き起こすらしい。無論私はいちいちそんな事に頓着するような人間ではなかったが、それでも窓辺の微粒子がその恐ろしい眼を出したり引っ込めたりしながら今か今かとパスタ麺に狙いを定めていたのには実のところ非常にうんざりしていたから、顔に最低限の鉄製ペンキを塗りたくってそれを買いに行くことにした。
 言うまでもないが、一旦この革張りの自動車の外に出てしまったが最後、やや粘り気のある古典的な烏が飛んできて辺りの栗の木に唐突な誓いを立て始める事は避けられない。ところでこの烏であるが、これは実は我々が普段「取っ手付きの愛」と呼んでいるものであり、両端に取り付けられた蝋燭さしの各々が大量のガガンボの中から自らの鼻先と一致するものを探し出すのである。テーブルの脚の内側で行われるという点で象牙質のマズルカとは若干の差異がある。いずれにしても、私はこの7月の遅く気怠い春にすっかり見入ってしまっており、というのもトスカナ地方一帯では廃材の市が催され、この廃材こそまさに雲の上に積まれた幾何学模様なのである。この場合、山高帽に埋まった蜥蜴がブリキの押韻と戯れたことについては書くべきだろうか?黄金の言語がいたる所跳ね上がる海については?或いは自らの溶融性を持て余す毛の生えた楽器については?そしてまた、私の吸う煙草はいつも午前8時きっかりにやって来る燕とともに3メートルだけ短くなるのだろうか。否、この上なく洗練された脳髄がヒマワリの雇い主に慇懃な挨拶をし始め、性急な山々が深い眠りにつくだろう。それに従って、多くのガラス製の大判広告が噴水から溢れ出すのである。
 セーヌ川の中で、私はモーリスが錆びたカーネーションを持って来るのを待っていた。このモーリスについて少しばかり紹介しておきたいのだが、彼はいつ如何なる時もその5つの顔のうちの1つが非常に青みを帯びていて、両手に草を抱えているのだが、それというのも、彼の父親が大変高名な夢遊病者であったことを反映しているのである。
 しばらく辺りを歩いて回ってみると、すぐ近くで学者たちが何か大きな声で議論しているのを見つけた。後日聞いたところによると、彼らは「三角形の毒性」について話していたようである。少しの後、黒く尖ったマントを来た女が恐ろしい速さで空から滑り降り、学者たちの薬指を残らず取って再び飛び去っていってしまった。それは余りに一瞬の事で、私はほとんど心臓が木食い虫に寄生された時のような心持ちであったのだが、すぐに私は彼女に追いつき、息絶え絶えといった体でその黒マントにしがみついた。マントは金属製の落ち葉を縫い合わせてできたもののようであり、その中では無数の星々と無数のカブトガニが会話をしていた。氷を食べる星、蒸気機関を持つ星など、様々の種類の星が、どこまでも広がる赤くて黒い空間に散らばっていた。
 私は迷わずその中の一つ──私の到来の後には次々に割れ目が入ることになっている、あのどこまでも白い星に向かって、我が身を投げたのだった。